忘れていたこと

先日、会話の中でふと思い出した話がある。その話は10年以上も前に起きた話だった。
その話を思い出したのは当時の友人との会話ではなく、全く関係ない別の友人と「恥をかいた昔の話」をしていた中で思い出したのである。

話の内容がどうではなく、驚いてしまったのはこのエピソードを暫くの間、自分は全く思い起こすこともなかったことである。
恥をかいた話ではあるが、思い起こせばなんとも面白く、自分の性格であれば定期的に人に話せば笑ってもらえるような話であり、いつでも話のネタとして持っていても良いような話だった。

この昔話は記憶からは消去していたと思ってしまうほど自分の意識からは離れていたが、
不思議なものでどこかでは覚えていたのである。つまり「忘れていた」だけだったのだ。
心理学や哲学では「無意識」と呼ぶような領域ではこの記憶はおそらく生きていたのである。

人間の記憶にはおそらく「意識的な記憶」と「無意識的な記憶」というものがあり、思っている以上に後者には多くのものがあるのかもしれない。
勝手なイメージだが、記憶は少し特殊な書斎のようなもので、部屋に入ると一列に横に長い本棚が遠くまでおいてあるのだと思う。

そこには色々な記憶という本があり、それを本棚に横に並べて閉まっていて、本を開いたら一番手前にしまっているのだろう。反復すると長期記憶されるという話があるが、それは本が書斎の扉の近くにあり、探したり取り出すことが容易なことから来ていると個人的には考えている。
世の中では短期記憶と呼ばれて、忘れたと思われているものもいくつかは書斎の本棚に実は残っていて、
ただそれは時間の経過とともに書斎の扉は遠くなり、存在したり、取り出すことを次第に忘れてしまうのだと思う。

しかし、普段の本棚同様、取りやすいものが重要な書物じゃないように、奥にある書物が重要なことも当然ある。
実は遠くに置かれている記憶の本の中に重要な線を当時引いていて、無意識にその人の重要性を持っていることも時にはあるのだと思う。
幼少期の経験がトラウマだったり、今の行動原理に無意識でなっていることは充分あるだろう。

そのページを開き、重要性に気づく、線を消したり書き直すことは人生において重要だと私は思う。
だが、そのページを意図的に開くことは難しい。


私は重要な話ではなかったが過去の話を思い出すのに10年かかった。そして、それを思い出すきっかけはかなり偶然の出来事だったと思う。

だが、多くの記憶はおそらく「消えた」のではなく、「忘れている」だけなのである。
これは希望のように私は感じている。
意気込んでも上手くいかないが、他者(これは自分の中だけでも存在すると考えている)と「出逢う」ことで突然自分の前に現れてくるのだと思う。
自己ならざるものにおいて自己に出逢う。この一見矛盾したものと向き合い続ける事が重要なのだと思う。

親鸞はかつて「他力本願」と言ったが、現代ではかなりネガティブなニュアンスが多い。
だが、自己の力でなんとかしようという現代の風潮は一部、間違っているのではないかと最近感じるようになった。
(広義の意味で)他者と出逢うことでしか、到達しない経路というものはおそらくあるのだ。
そのことを私は「忘れていた」ということがないように努めたいと思う。

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