始めるということ

今、文章を書き始めている。

文章を書こうと思った理由としては
「最近、自分の考えていることを残してみよう」
というだけのことである。

自分のために書き残そうと思っただけなので、メモに書いていればよいということもあるが、
それもなにか味気ないと思い、こうしてブログを立ち上げてみたのである。

しかし、始めようと思い立ったのは今年の初めの頃だったように思う。
それが気がつけば3月も半ばになってしまっている。
なぜ、今日執筆しようと思ったのだろうか。いや、執筆をすでに始められているのだろうか。
執筆しようと思ったことは心に決めてから何度もあった。
しかし、今日に限ってこうして行動として書き始めているのである。

仕事が早く終わったからだろうか。予定が偶然なかったからだろうか。
いや、そんな日は何度もあったはずである。
今この文章も用意して書いているわけではない。
今まさに浮かんだ言葉をただ並べている。それだけなのだ。

何かを始めるとき、人はなにかとモチベーションが高く始まることが多い。
ただ、モチベーションなんてものは移ろいやすく、
その結果、出来ていない自分に気づいて自信をなくしていつの間にかやらないことが多い。

そう考えると始めるぞと意気込んだり、最初から目標を立てることには一種の危うさがある。
ただ粛々とやる。そこに大きな大義を振りかざしても実は本音を欺けないものなのかもしれない。

理由もなく始めている方が実はずっと出来てしまっていることもある。
自分の話でいうと自炊をするぞと意気込んでやるよりも特に理由はないけど作っている方が辞める理由もそこまでないから続いているものだ。

始めるというと最初の行為のハードルを下げると良いという話を見ることがある。
ランニングを始めたい場合、ランニングではなくまずは着替えるという行動を目標にしたり、
簡易化することでそのままランニングに行けるというわけだ。

私は今PCを開いてこの文章を書いている。
たしかに、このあとPCを使うために開いたことが起因しているのかもしれない。
しかし、そう考えるとその始まりはどこにあったのかということだ。

PCを開いたことはたしかに理由としては大きい
しかし、この始まりの連鎖はどこから始まったのか。考えると難しい。
昨日、サウナに行ったからぐっすり眠れたこと、知り合いから不意に手紙が来たこと、
少し目が疲れてスキマ時間に読書をする気にならなかったこと、
果たしてどこからこの文章を書くことが始まったのか。意外と難しいものである。

人生もいつの間にか始まっていた。自己意識も気づけば持っていていまを生きている。
我々の中では実は始めたという意識よりも実は知らぬ間に始まっていたり始めてしまっている事が多いのかもしれない。それは悪いことではなく、気負わずある種の日和見の方がむしろ良かったりすることもある。

ブログのはじめは始めると言うことを書いた。
いつか見返した時に「自分は始めるということもこう簡単に出来ないのか」と笑えることを祈っている。

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